来 歴


何者かに


「人間は何者かにうまれつくのではない」
手きびしい一行に
私はうろたえるばかりだ
「自らのなす行為によって
人間は何者かになるのだ」
若い女の人の
生き方のむずかしさが
彼女のことばの背景に
荒れた海のように騒ぎ続ける
海抜数千メートルの
ヒマラヤの山の中を飛ぶ鶴の一群
澄み切った空の向こうへ
列なして羽ばたいて行くのを
イギリスの登山隊が目撃したという
生物学的に見れば
ある現象にすぎないだろうが
命がけの鳥たちの飛翔に
常の鳥にはない
幻の鳥の鳴き声を聞きつけてしまうのだ
もっと険岨な山へ向かって鳴き渡る鳥影
彼女の首すじをのばした姿勢が
オーバーラップして浮かんでくる
また今ここには
とどかない空へ向かって
ありったけの腕をひろげているアカシア
梢を離れた枯れ葉が
深夜の窓ガラスを
雨滴のように滑り下りて
無数のことばを間断なく送ってくる
ともすれば眠ろうとする
私の心の内側を叩きながら
視界いっぱいに立っているアカシア
決して飛ぶはずのない空をめざして
駆け上がろうとするアカシアの大木
それは
もっと別の何者かになろうとして
ついに私にしかなれないでいる私自身を
更に追い立ててやまないもの

目次に戻る